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渡辺洽(わたなべひろし) 経歴
スイスとドイツで菓子づくりの修業。
1976年に平塚で「バッハマン」創業。
バウムクーヘンで世界洋菓子博覧会で金賞を受賞。
洋菓子職人としても数々の賞を受賞。

能力開発21 2003年7月号(中央職業能力開発協会様にて平成15年7月1日発行)にて、
名工は語るという特集を組んで頂きましたので、こちらを転記させて頂きます。
お時間があれば是非、ご覧になってください。

名工は語る ~洋生菓子製造工・渡辺洽さん~

私の修業時代 二十三

さまざまな分野の名工を訪ね、その修業について語っていただく「私の修業時代」。
今回は洋生菓子製造工の渡辺洽(わたなべひろし)さん(七一歳)のお話をうかがいます。
 神奈川県平塚市。JR平塚駅から閑静な住宅街を歩いていくと、ダークグリーンのパラソルとウッドチェアを発見。看板の渋い赤と調和して、何とも心地よいムードが漂っています。ここは、平成十四年度卓越技能者(現代の名工)として厚生労働大臣表彰を受けた洋生菓子製造工、渡辺洽さんの洋菓子店「バッハマン」です。

 このお店は洋菓子を販売するだけでなく喫茶店も隣接しており、好きなお菓子をその場でいただけるとか。外のウッドチェアでもティータイムを楽しむことができるのですね。

【名工の厨房を拝見】
 ドアを開けると、目の前にぱあっと広がる、お菓子の世界。左のショーケースにはケーキが、中央の棚には焼き菓子、右にはバームクーヘンが並んでいます。
 ヨーロッパ菓子店と聞いていましたが、なるほど、よく見ると「スイスパイ」「ドイツ風チーズケーキ」など、一般的な洋菓子店ではあまり見ることのできないようなヨーロッパスタイルのお菓子が数多く置かれています。一つひとつ、芸術品のように美しく仕上げられたお菓子たち。どれも暖かな色で、渡邉さんのお人柄がにじみ出ているような気がします。
 お店の奥には、これらお菓子の製造工場があります。甘いバニラエッセンスの香りがしてきました。
 「こんにちは!」にっこりと、人なつっこい笑顔で工場から出てきてくれたのは、「現代の名工」渡邉さん。洋菓子名工の工場、そして厨房とはいったいどのようなところなのか。好奇心を抑えられず、ちょっぴり工場にお邪魔してみました。

 一歩工場に入ると、少し肌寒くなったようなきがしますが?
 「ははは。それはわざと室内の温度を下げているからですよ。洋生菓子製造において、温度管理は非常に大事なんです」
 冷蔵庫もお店に出す直前の「製品」用、その一段階前の「半製品」用などと用途に応じて分けることで、微妙な温度調整を行っているそうです。デコレーション専用の厨房では、すべての作業台が大理石製。これも作業中に「半製品」の形が崩れないよう、低音を保つ工夫なのです。

 隣は生地を作る厨房。職人さんたちが忙しく作業しています。ずらりと並んだ、多種多様なホイップの機械。この巨大なマシーンを使って生地をこねる職人さんの姿も見えます。粉の微妙な配分は経験がものを言うそうです。大きな銅のボウルを火にかけ、カスタードクリームを作る人に、「火加減は丁寧に見るんだよ」と声を掛ける渡邉さん。技に厳しい「熟練職人」の顔がちらりと覗きます。

【お菓子に恋いこがれて】
 昭和六年、静岡県富士宮市生まれ。和菓子店を営む菓子職人を母方の祖父に持つ渡邉さんは、小さい頃からお菓子作りを目の当たりにして育ったと言います。
 「祖父の店『藤太郎』は近くだったから、小学生のころからよく手伝いに行っていました。とは言っても、実際は粘土を渡されて、お菓子作りの真似をしていただけ。まあ仕事の邪魔をしていたんですね(笑)」

 頃は第二次大戦中。物資の乏しい時代でした。母の実家に足繁く通っていたのは「食べ物があった」から。とりわけ、育ち盛りの渡邉少年にとって甘いものへの渇望はとても大きなものだったと言います。

 昭和二十二年、静岡県富士宮実業学校普通科を卒業。小学校教員である父の長男として生まれた渡邉さん。父の意向もあり、いったんは教員を目指したと言います。しかし、やはり慣れ親しんだ菓子職人となって「美味しい・きれいなものを思う存分作ってみたい」という気持ちが強く、菓子作りの道を進むことを決意。父に自らの決断を伝えました。

 「父は非常に厳しい人。でも、自由な頭を持っていたから、最後には『わかった。それなら私の目の届く範囲で働きなさい』と言って承諾してくれました」
 父の勧めから、同年四月、母方の叔父の営む「藤太郎本店」に入社。菓子職人見習いとしての修業が始まりました。

【努力の修業時代】
叔父である親方は、菓子作りに対し、とても向学心のある人だったそうです。
 「パンや、当時なかった洋菓子も自分で勉強し、干しぶどうや干しバナナを入れたクッキーなど独自の製品を作っていました」
 もともとは、和菓子職人だったにもかかわらず、少ない材料を工夫して、どうやったら美味しいお菓子が作れるかと模索し続けた叔父。その菓子への真摯な姿が、渡邉青年に大きな影響を与えたのは想像に難くありません。
 一〇人ほどいたという職人さんの中で始まった修業の日々。見習いの仕事である掃除やお使いをこなしながら、徐々に菓子作りの経験を重ねていきました。

 「最初の仕事はパンの仕込み。次の日に焼くため、前日の夜一時ごろから粉とイースト菌を練って中種を作り、寝かせるんです」
 時間をかけ、中種・本種の工程を経るパン作り。アメリカ式パンが主流の現在の日本ではほとんど行われていませんが、ヨーロッパでは今も変わらずこのやり方だそうです。
 難しい技術が必要とされる仕込みですが、学生時代に叔父の店でアルバイトしたこともあった渡邉さんは、一ヶ月もすると先輩の手を借りず一人で仕込めるようになったと言います。
 「一人で夜中の作業だから、つい種を寝かせた箱の上でうとうとするときもあって、でも種が発行すると箱のフタがぐーっと、ものすごい力で持ち上がってくる。それで、はっと目覚めたこともありました(笑)」
 朝六時。本仕込み・成形を終え、ホイロに入れて第三発酵したパン。それを焼くのは電気ではなくドイツ釜でした。コークスに火をつけるための薪割りも渡邉さんの大事な役目でした。

 当時の修業を「何がなくても努力、努力。さまざまな技術を身につけるには人一倍努力しなければ乗り切れなかった」と振り返ります。
 「技は盗み見て覚えましたね。親方が秤で粉を量るときもじいっと見て。味はできた菓子を生で食べ、その甘さ、塩加減の感覚を舌に覚えさせました」
 親方の書いたレシピは英語。それを盗み取るため、辞書を引き引き読み解きました。

【スイス留学へ】
 「藤太郎本店」の九年間の修業で和菓子・洋菓子・パンと、一通りの基礎を自分のものにした渡邉さんでしたが、より新たな技を求めたいと、昭和三十一年、東京は銀座の二幸食品に入社しました。

 「(藤太郎での)九年の修業の終わりには物資の統制もなくなり、バタークリームなども出てきていました。そういったものを扱っていたので、つい自分のことを一人前だと思ってしまって。でも実はまだまだだったんですね。東京に出て分かりました」
 首都に身を置き、新たな菓子と出合うたび、「洋菓子をより深く学びたい」という思いが募っていったと言います。

 昭和三十六年、「新宿コージーコーナー」に主任として入社、のちに洋菓子職人長に就任しました。この職長時代に旅行でヨーロッパを訪れた渡邉さんは、偶然スイスのリッチモンド製菓学校を見学。その画期的な教育法に深く感銘を受けたと言います。後のスイス留学を決意させる出来事でした。
 「パン、チョコレート、あめ細工、焼き菓子など、洋菓子全般を手掛ける学校でね。一つのお菓子のボディ(生地)について、砂糖が多いとどうなるか、卵が多い場合はどうかと、理論的に説明してくれる。当時の日本はまだそこまで教えてくれるところはなかったんです。これはぜひ学ばねばと思って」

 まずは十五日間のツアーで同校に体験入学した渡邉さん。そのとき、味に魅せられて学校帰りに足繁く立ち寄っていたのが、近くの「バッハマン」という洋菓子店名。名前でも分かる通り、渡邉さんの現在の店はこのスイスのお店の姉妹店なのです。

 「お店に通ううち、同店に勤務していた日本人・吉田さんの薦めで、昼間はリッチモンド製菓学校に通い、終わってから『バッハマン』で現場の技術を学ぶことになって。嬉しかったですね。いったん日本へ戻り、資金を貯めてスイスへ向かいました」

 ビザの問題もあり、「スイスで三カ月学んでは日本へ戻る。資金を作ってからまたスイスへ」、という生活を足かけ八年ほど繰り返しました。授業は難しさもさることながら、フランス語のため苦労したとか。現地の日本人に助けられ、持ち前のガッツで乗り切りました。
 「全教科を一通り学んだけど、それでも物足りなくて。同じ科目を何度も学びに来ていたら、学校の先生から『お前今度は何しに来たんだ』なんてからかわれてね」

 ハンス・ネィット先生は、渡邉さんにとって言わば「スイスの師匠」。授業だけでなく、「ドイツのどこどこの店のバームクーヘンは素晴らしいから行ってみなさい」と、日々ヨーロッパ菓子の何たるかを深く指導してくれたと言います。ネィット先生、そして訪れるたびに快く厨房で学ばせてくれたスイス「バッハマン」社長さん一家ともども、今も親しく交流しているとか。遠い日本から通い続けた渡邉さんの菓子への強い思いが彼らの心を動かしたのでしょう。

【洋菓子の生き字引!】
 「新橋文銭堂」、そして技術顧問として「藤太郎本店」に勤務したのち、昭和五十一年、現在の「バッハマン」を設立。
 昭和六十一年、ヨーロッパ菓子では最も難しいとされるバームクーヘンを使った工芸菓子で世界洋菓子連盟日本大会・ドイツ製菓事業連盟金賞を受賞するなど、常に日本における洋菓子の歴史を体現してきた「洋菓子の生き字引」、渡邉さん。
 「スイスの経験が菓子への視野を広げてくれました。自分のレシピを作り出す技能を確立することができたんです」
 卓越技能者となった今も常に前進。食用バラを練り込んだサブレや、黒豆入りパウンドケーキなど、休むことなく新菓子の開発に力を注いでいます。これらの菓子は神奈川県の指定銘菓となっています。

 「美味しいものを作りたい」という気持ちで五十六年の修業をひたすらに重ねてきた名工のバームクーヘン。その味は、とろりとした甘さが舌に心地よい、ヨーロッパの文化を日本で昇華させた「絶品」でした。